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2019年08月11日

お盆前。母の実家清掃です。

今日は珍しく、柄にもなく、母孝行(?)で、母実家の掃除でした。
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上の写真が、その実家です。1階が店舗で2階を住居とした造りです。
今は空家となってます。住んでいた祖父母は私が20代の当時に鬼籍に入り、一時期は船舶の電装を請け負う会社に貸していましたが、そこも社業が伸びて他所に移り、空家となりました。

普通なら売却しては、となる話ですが、過疎著しい街の寂しさ、なかなか買手はありません。何より母にとっては拠り所である生家です。どうしても手放せない、と母は財を削って今も所有しています。
それを子である私達に課さないのは本当に凄い事でもあり、母の数少ない我儘を見守っています。
それに、私にとっても誇らしい祖父母でもあります。私が大学に入った辺りまでは家業を続けていて、通学路の途にあるこの場所に、事あるごとに立ち寄り、甘えさせて頂き、時に折檻してもらい、育ててもらいました。
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「高畑自転車店」という名前の、自転車・バイクの販売修理店でした。祖父が亡くなる迄ここでやっていました。
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せっかくなので、長文になりますが祖父母の事を書きます。

祖父母は所謂駆け落ちで夫婦となりました。昭和初期の、かなり閉塞した地域でのそれは、随分大胆な事だったと思います。
祖母は庄屋格の家の娘で、女性でありながら高等学校への進学を推挙されていた程だと聞きましたから、相当の才女、かたや祖父は所謂水飲み百姓の末子だったと聞きます。家格を重んじる時代には不釣り合いな、しかしそれを飛び越えての行為であり、両家を巻き込んだ騒動となった事と思います。
結果的に双方の親元とは、ほぼ縁切りに近い状態になったと聞きました。

(※この事は、祖母が他界したその通夜の席で、当時を知る親戚の方から聞きました。母も、その兄である叔父もこの事は知らされておらず、全員がひっくり返ったのを、今でも覚えています。祖父母は生前、家格や縁故筋には公私含めて極めて厳しく、我が母や私たち孫の交友・恋愛・結婚観に至るまで、事ある毎に薫陶を授けていました。ただ、それにしては親戚縁者との付き合いが薄く、中には県議会議員や小学校教頭となった方もいるのに、それほど快く接していなかった様でもありました。それ故に、この謂れを聞いて初めてそれらに合点がいった事でした。母に至っては自分の人生観さえも覆がえされた程ショックだったと言っています。)

あの時代に何の身寄りもなく生きていくのは想像出来ない厳しさであった事でしょう。
仕事も転々とした先に、この家業を始めた…というより、この家業に賭けたのだと思います。

店舗以外の4畳半一間での親子4人住まい、長兄である叔父は幼少期より家業手伝い、母も炊事含めた全ての家事を賄うという、凄まじい日常だった事を、幼い頃より母から聞きました。服すらも裁縫で繕わねば手に入らない程で、それを疎かにして、学業以外で友達と遊戯に興じる等すると、折檻(叩かれる、ではなく文字通り殴る、蹴る、ほおり出される、家の前の海に投げ捨てられる、といったDVレベルでした。昭和のその当時でも異様なもので、近所から憐みを受ける程だった様です。)される有り様だった、と聞いています。

しかし、それらを踏まえても、精一杯の努力と精進を積み重ねて、お客様、取引先からの信用を勝ち取り、ついには当時の主要自転車メーカー、セキネ自転車の、全テナント中 年間売上No.1を幾度となく達成するという、とてつもない事をやってのけました。

今、40半ばを過ぎた身になってこの事を考えると、より、その物凄さがわかります。
全テナント、これは勿論、法人化して起業化した販売店も含みます。より大きく、従業員も多数在籍したお店も多くあったと思います。これらを押しのけて、一人親方の個人商店が頂点に立っていたという事です。我が祖父母の事ながら、とてつもな過ぎて想像がつきません。
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外景としては、当時は高度経済成長であり、また重厚長大を好まれる背景から栄える造船業の街は、今では想像がつかない活況と人口を帯びていた事情もありますが、にも関わらず、この実績は凄すぎます。
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所謂、財テクや特殊な販路・販売方法などは一切用いずに、これが実現できたのは、顧みると、ただひたすらに、信用を得続ける為の、誠心誠意の取り組みと徹底した自制にあった、と私は思っています。

誠心誠意とは、仕事に対する姿勢で、受けた仕事は損得抜きで全力を使って最高の品質で応じる、逆に出来ないと見積ったものは、たとえ何があっても受けない、毅然とした姿勢でした。祖父の厳格な、真正面から物事に挑む姿勢そのものでした。
そしてその祖父を、祖母は金銭管理の面で支援して示しました。祖父が交通事故で入院した事があり、そのまま廃業になるかもしれない、と危惧した仕入先やメーカーが一斉に未払い分の支払いを請求した時があったそうです。その時祖母は、取り立てに来た全ての業者に、目の前で金庫を開け、現金即金で全額支払ったそうです。先に挙げた貧困を強いた生活で蓄えた、いざという時のお金だったそうです。(祖父との縁切りとなった場合の、我が子と共に逃げ延びる為の蓄えでもあった、と後に聞きました。)
後日、その時のメーカー・業者の幹部格の方々が直接来店し、受け取った現金を全て祖母に返し、祖母がいる限り、以後絶対にこの様な不躾な事はしない、と詫びて帰ったそうです。

その孫として、何度聞いても誇らしい話であります。

この様な祖父母に、私は随分と可愛がられました。外孫とはいえ初の孫、しかも男子でしたから尚更だったのでしょう。仕事の合間もあやしてもらい、出かける時もよく連れ立ってくれました。娘である自分でもこんなにあやかしてもらえなかったのに、と未だに母からはヤッカミを受けています(笑)。

それらもあって、私にはやっぱり誇らしい祖父母です。厳格で躾には滅法厳しいものでしたが、しかし愛してくれました。必死に躾してくれましたし、必死で愛してくれました。私にとっては感謝でしかないです。
盆と正月、年に2度の煤払いの清掃で、久方ぶりに遺影を手入れする内に、やはり感謝の思いに包まれています。

今頃あの世で何を話しているのでしょうかねぇ。不甲斐ない私を見て、情けない、とぼやいて話題にしているのでしょうか?
…それがネタでケンカになってなけりゃいいんですが(−−;ネ。

そんな事を思う、2019年のお盆前のひと時でした。
ではではー^^)/。
posted by りちゃ。 at 14:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
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